バランタインの特徴・ラインナップ・背景をご紹介!
ブレンデッドスコッチウイスキーの中でも非常に多くの人達に飲まれ愛されてきた、バランタイン。
本記事ではバランタインの歴史をたどりつつ特徴に触れ、そしてラインナップなどをご紹介いたします。
今回は歴史の部分がかなりボリュームあるので、
ラインナップをすぐにご覧になりたい方はこちらをクリック↓(ページ下に飛びます)
バランタインのラインナップ
バランタインの歴史
それではバランタインの歴史がどのように現在まで紡がれているのかをご紹介していきましょう。
ジョージ・バランタイン
バランタインの創始者の名前は「ジョージ・バランタイン」。
1822年、当時13歳であった彼はアンドリュー・ハンターという、
食料品・ワイン・ウイスキーなどを取り扱っている商人の元へ修行として年期奉公をしにいきます。
そしてこの頃はウイスキー蒸留認可制度というものが実施され、
長い間続いていたウイスキーの密造時代に終焉を迎える時期でもあり、
1824年には認可を受けた新しい蒸留所が続々と登場してくるようになります。
ジョージの独立
ジョージバランタインは1827年に修行を終え、
エディンバラのカウゲートというところに小さな食料品店を開いて独立を果たします。
また4年後にはカウゲートからキャンドルメーカー・ロウに移し、
さらにその5年後にサウスブリッジというところへお店を構えます。
このサウスブリッジは由緒ある通りで、
貴族や上流階級の人達が物を買い求める場所でもあり、
彼らのお眼鏡にかなわないと全く売れないところでもあります。
しかし、ジョージが得意としていた顧客はそういった階級が高い方々だったというのも功を奏し、
品質やサービスが評価されてバランタイン社の売り上げは繁盛していきました。
ちなみに現エディンバラのカウゲート、キャンドルメーカー・ロウ、サウスブリッジの立地をまとめてみました。
黒い星でマークされている部分が目印です。
ブレンドの始まり
月日が経ち、ジョージが44歳頃になる1853年、
エディンバラでウイスキー商を営むアンドリュー・アッシャーが熟成年数の違うシングルモルトウイスキー同士を掛け合わせたヴァッテド・ウイスキーを作り上げます。
ジョージはアッシャーの友人でもあり、
この発見を目にして自身もグレーンウイスキーとモルトウイスキーを混ぜたブレンデッドウイスキーを作る技術を磨き始めます。
また、この頃他のウイスキー商の間でもブレンドはよく行われており、
各々が安定した品質を得るためのレシピを磨き上げていました。
こうした中でジョージは知識と経験をより深めていき、
相対的にバランタインの評価も上がっていきました。
ぶどうの凶作とウイスキー
その後、ジョージは長男のアーチボルトに商売を任せて、
自身はウイスキーのブレンディングに打ち込むためにグラスゴーへと移り住みました。
また、この頃ブドウが虫害により凶作となってしまい、
それに伴ってワインが作ることができず、同じくブドウを原料としているブランデーにも被害が及びました。
上流階級の方々は高級蒸留酒としてブランデーを好んでいたのですが、飲むに飲めない状況に。
そのせいもあって、蒸留酒としてウイスキーに目が向けられ上流階級の方々が殺到する事態になりました。
ジョージは移り住んだグラスゴーでもウイスキーの卸売りを軌道に乗せ、
自身のブレンデッドスコッチウイスキーの完成を目指していきました。
後にこれが「バランタイン17年」の基礎になる部分を作り上げたこととなります。
また、この頃はもう高齢だったのもありジョージはエディンバラへ隠退します。
そして1891年、静かに82年の生涯を閉じました。
(引用:https://www.ballantines.ne.jp/heritage/history03.html)
王室御用達の授与
父であるジョージ・バランタインから商売を受け継いだ長男アーチボルトは、1895年にプリンシズ・ストリートにお店を開きます。
プリンシズ・ストリートはエディンバラの中心街とも言える通りでもあり、
上流階級の人々から国内にとどまらず、国外へとバランタインの名前は広まっていくことになりました。
時を同じくして、グラスゴーでは父親から事業を受け継いだジョージ2世(アーチボルトの弟)が歴史的快挙を成し遂げます。
なんと、ヴィクトリア女王がバランタイン社に王室御用達の称号を与えたのです。
これによって今後のバランタイン社の国際的発展に大きな影響を及ぼすことになりました。
(第6代イギリス王女ヴィクトリア 引用:https://www.ballantines.ne.jp/heritage/history01.html)
国外にむけた発展のために
1910年にバランタイン社はバランタイン・ファイネストを発売し、主要な輸出製品の一つとなりました。
そしてどんどんと国内外へと影響力を強めていきますが、次第にこれが経営陣にとって重荷になってきます。
ジョージ2世とアーチボルトの息子ジョージ3世の指揮で経営を執り行っていましたが、
ジョージ2世は既に70歳を迎えようとしていて、引退が間近でした。
ジョージ3世も多大なる努力をしてグラスゴーの産業界におけるバランタイン社の影響力を確立させます。
しかし1919年の46歳の時、さらなる国内外への進出にそなえるため、会社を他の同業者へ譲渡するのを決意しました。
二人のウイスキー商への売却
バランタイン家はジェームズ・バークレーとR・Aマッキンレーという二人のウイスキー商に会社の売却を決意します。
1919年にはグラスゴーの事務所、1922年にはエディンバラの事務所を譲渡しました。
バークレーはもともとスペイサイドにある蒸留所で働いており、蒸溜所の事務所で雑用等をこなしていた小間使いでした。
しかしスコッチウイスキーの伝統的なノウハウはしっかり吸収している人物でした。
営業マンとなってからは、市場を広げる為にリスクを恐れないという果敢さを持ち合わせていたのだとか。
マッキンレーは逆にワイン通としても名高く、ウイスキーの専門家として「鼻」を持っていました。
オーダーメイドのスーツ、そして手づくりの絹のネクタイを身に着けて洗練された紳士たる人物です。
彼ら二人は互いに非常に良いビジネスパートナーであり、そしてバランタインの価値を理解していました。
※左がバークレー、右がマッキンレー
(引用:https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/101/index.html)
禁酒法という大きな壁
バークレーとマッキンレーがバランタインの経営を行うようになり少し経ってから、英国でとあるウイスキーの法律が制定されました。
それは「全てのスコッチウイスキーは3年以上の熟成を義務づける」というものでした。
これにより、スコッチウイスキーという飲み物の格が一気に高くなります。
また、世界のブレンド業者・ラベル業者・熟成業者らにステータスが高いことが認知されて、
アメリカ市場でも同様にその認識が広まることで大きなビジネスチャンスがやってきます。
しかし、バークレーとマッキンレーに大きな壁が立ちはだかります。
アメリカで禁酒法(ボルステッド法)が施行されたのです。
これによって顧客は銘柄のついたお酒を必死で探し回り、反対に政府は酒類の販売を断固として阻止するという構図ができあがります。
政府が販売業者の敵となる状態はで商売が難しいものになり、うまく立ち回らなければ生き残れない時代になります。
禁酒法下における販路の拡大
禁酒法との戦いはなかなか厳しいものとなりました。
しかし、バークレーはバランタインのウイスキーを一旦カナダやカリブ海に持っていき、
そこからアメリカへ密輸する手段を取ります。
もちろん当時のアメリカでは禁止されている品物ですから、
沿岸警備隊や取締官によって捕えられてしまうリスクがありました。
他にも同じく密輸するライバル業者との確執で危険な取引も数多く存在し、
ウイスキーの荷降ろしのときにいざこざが発生すると殴り合い・拳銃による発砲も跡を絶ちませんでした。
~禁酒法時代の逸話~
当時はウイスキーのいざこざは関係者に噂として流れており、また実際それに直面している人物は主にバークレーでした。
すると当時のバルブレア蒸留所の所長がアメリカから戻ってきたバークレーにいざこざの真相を聞きました。
バークレーは何も語らず、黙って上着とシャツを脱ぎました。
所長の目に写ったバークレーの背中はなんと、、、一面傷だらけだったのだとか。
当時、禁酒法下のアメリカ内でお酒の幅を利かせていたのはマンハッタン西52丁目の21(トゥウェニーワン)クラブでした。
「もぐり酒場」として有名なところですね。
そこの持ち主であるジャック・クラインドラーとチャーリー・バーンズに接触し、
バークレーはアメリカにおけるウイスキーの納入先を手に入れました。
しかしながら当時のアメリカ国民はそもそも酒に飢えていたため、
「バランタインの価値」を理解できる余裕がありませんでした。
この頃の彼らに馴染み深かったのは荒削りで口の中が焼け付くようなライ・ウイスキー。
バランタインのような口の中でとろけるような良さを持つウイスキーの真価が響く状態ではなかったのです。
そこでバークレーはまず、英国とニューヨークをつなぐ大型客船の常連となりました。
モーリタニア号やクイーン・メリー号といった大型客船の食堂でバランタインを馴染みのあるのボトルにさせたのです。
このような船に乗る客層といえばやはりお金を持っているセレブな方々で、
そういった人々がバランタイン社の製品に馴染み深くなることでアメリカ内でのバランタイン製品の浸透を狙っていたのです。
結果はうまくいき、バランタインはアメリカで最も売れるウイスキーの銘柄の一つとして国民へと広がりました。
禁酒法時代もぐり酒場として栄えていた21クラブ
(引用:https://en.wikipedia.org/wiki/21_Club)
世界恐慌と経営権の移り変わり
ハリー・ハッチという、禁酒法時代からバークレーとの繋がりを持っていた人物がいます。
彼はカナダのウイスキー蒸溜会社ハイラム・ウォーカー・グッダラム&ウォーツの経営者でした。
ハイラム・ウォーカー社といえば「カナディアンクラブ」などを作っている会社ですね。
この頃のバランタイン社はアメリカからの注文が殺到しているものの、経営自体は良くなかったのです。
禁酒法によるアメリカ市場への発展が難しい状況と、世界恐慌に伴ってスコットランドでも不況が起きており、
1933年時点で操業を続けている蒸留所はわずか15箇所しかありませんでした。
この様な背景もあるなか、ハイラム・ウォーカー社はバランタイン社に支援を申し出て、1935年に経営権が移りました。
ハイラム・ウォーカー社はスコッチウイスキー作りへの深い理解がありました。
ブレンデッドウイスキーとして必要不可欠なもの、それは各蒸留所のモルトです。
そこで、ハイラム・ウォーカー社はバランタインの製造に使用されている蒸留所を買収し始めました。
また買収されたからと言って製造方法などに会社から口を出す事もなく、やり方はスコットランドの人たちに任せていました。
そして1937年にはハイラム・ウォーカー=スコットランド社が設立されました。
グレーンウイスキーの確保
各モルトの蒸留所を獲得したハイラム・ウォーカー社ですが、ブレンデッドウイスキーに欠かせないもう一つのものがあります。
それは「グレーンウイスキー」。
ブレンデッドたる重要な部分ですね。
モルトウイスキーの確保は完了しましたが、グレーンウイスキーは未だに他から買い取りを行なっていたのです。
バークレーがウイスキーの買収を行なっているなか、ハッチは別の計画を進めていました。
それは「グレーンウイスキーの製造そのものを会社で行う」ということです。
そしてタンバートンのレーヴェン川沿いにあった造船所跡地にヨーロッパ最大の製造所を建てる計画をしていました。
計画を進めて1937年に着工し、600人以上の人員が投入。
完成した製造所内には広大な貯蔵庫やブレンディングやボトリング用の施設、そして小さなモルトウイスキーの工場(インバーレーベン)までありました。
総工費は300万ポンド、なんと現在の日本の貨幣価値にして700億円越えです。
バランタイン本社もダンバートンへと移り、拡張する計画はどんどんと進みました。
その様な拡張をしていく中でもバランタインは最高品質を守り抜くという意志のもと、最高の腕を持った職人達のみを結集させていったのです。
戦後の工場拡張
1938年9月28日にダンバートン工場がオープンとなりましたが、同時に英国では動員令も発令されました。
しかし、戦争時代の燃料など様々な不足を乗り越えてなんとか生き延びつつ世界中にスコッチウイスキーの質の高さを広めていきました。
その後、様々な蒸留所の経営を引き継いでいきつつ穀物の供給安定の為に麦芽製造の会社に資本参加したり、
1万8000キロリットルのウイスキーが貯蔵できる倉庫を建てたりと拡張政策を行なっていきます。
このような政策が功を奏し、バランタイン社の売上げは記録的なものとなりました。
そして1977年、ダンバートン工場から十数キロ離れたキルマリッドというところに新工場を建てます。
そこではブレンディング機能がなんとウイスキー4000万本分あり、ヨーロッパ内でも最新鋭の工場でした。
1982年には、同工場内にて最新技術のボトリング工場も稼働し始めました。
また、この工場の総工費はなんと4300万ポンドに達していました。
しかし、ハイラム・ウォーカーはバランタイン社へ絶大なる信頼を置いていたので当時の社長が新工場のプロジェクトをプレゼンすると役員会はわずか数時間で承認したというお話が残っています。
現在のキルマリッド・ブレンド・ボトリング・プラント
(引用:https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/49/index.html)
その後の変遷
その後1987年、ハイラム・ウォーカー=スコットランド社はアライド・ライオンズ社に買収されました。
1988年には同じくアライド傘下のアライド・ヴィントナーズと合併してアライド・ディスティラーズとなり、
スコットランドに本社を置く世界第二位のウイスキー会社となりました。
最終的には2005年にペルノ・リカール社に買収されたことで、
ワイン・スピリッツ部門で世界一の会社となって現在にいたります。
バランタインのラインナップ
長い歴史が紡がれているバランタインでは、限定品も含めて様々なラインナップが存在します。
レギュラー品を中心にご紹介していきます。
バランタイン ファイネスト
レギュラー品に相当する1本です。
キーモルトとなる7種類(バランタイン魔法の7柱)と50種類を超えるモルト原酒、そして4種類のグレーン原酒が使用されています。
飲めば各モルトの個性の調和とはまさにこの事、という味わいがわかるはずです。
お値段も手頃で700mlが1000円前後というリーズナブルさ。
普段飲みにももってこいです。
バランタイン12年
熟成年数が12年以上の各モルト・グレーン原酒を使用したものです。
ファイネストよりも一層香りの豊かさが強まり、
甘い香りやどこかスモーキーな雰囲気もより感じられるようになります。
バランタイン17年
40種類・熟成年数17年以上の各モルト・グレーン原酒をブレンドして作られたものです。
このバランタイン17年を指して、ザ・スコッチと呼ばれています。
味わいはとにかく上品さがあります。
ブレンドによる調和の真髄はまさに17年が一番感じられるでしょう。
個人的にお値段5000円前後(※2020年現在)でこの味わいが堪能できるのは素晴らしいと思っています。
バランタイン21年
熟成年数が21年以上の各モルト・グレーンをブレンドして作られた1本です。
味わいは長期熟成によりスムースさが際立ち始め、高級感が感じられるでしょう。
蜂蜜のようなふんわりとした甘みと青りんごのような爽やかも併せ持っています。
実はこのボトルはリリースが2007年というまだ新しい部類に入ります。
それまではファイネスト・12年・17年・30年となっており、17年のあとにいきなり30年になっていました。
バランタイン30年
レギュラーのラインナップで最上位モデルの1本です。
熟成年数30年以上、32種のモルトと5種のグレーン原酒が使用されています。
まろやかさで言えば天下一品、アルコールの刺激はほとんどなくするりと飲めます。
優しいバニラの甘い雰囲気や、穏やかなスモーク香が鼻をくすぐり、
口に含むとドライフルーツの甘さや以外にも青りんごのフレッシュ感がやってきます。
普段から飲むにはお値段的にハードルが高いですが・・・
贈答品にしたら申し分のない高級品です。
バランタイン ハードファイヤード
ウイスキーを貯蔵する際の樽は、内側を焦がす「チャー」という工程があります。
その工程では原酒を樽に染み込ませてから乾燥した状態で焦がすのですが、
このハードファイヤードでは原酒が乾燥していない状態で焦がしを行います。
(ハードファイアーリング製法)
より強い炎での焦がしで通常よりもつよい焦げ目が付くことで、
強いバニラ香とスモークさを狙ったのだとか。
味わいはドライフルーツのような甘さとこのボトルならではの濃厚なバニラ香が楽しむことができます。
また、年数表記のないものにしてはアルコールの刺激が意外にも少ないです。
お値段も求めやすい2000円前後となっています。
バランタイン バレルスムース
先程ご紹介したハードファイヤードの後釜となる1本です。
12年やファイネストなどとは違い、バレルスムース専用のブレンディングがされています。
そしてその専用原酒をアメリカンオーク樽にて最後に熟成させています(後熟)。
熟したバナナや穏やかに香るリンゴ、バニラ香があり、
アルコールの刺激は控えめで甘みを中心としつつも多少の酸味、そして滑らかさが印象的です。
お値段も2000円前後なので手が伸びやすく、味と価格のバランスもかなり良い1品だと思います。
この他にもまだまだ限定品などもありますが、
とりあえずのところレギュラーを中心にご紹介させていただきました。
管理人が口にすることができた限定品などがあれば適宜追加していきます。
歴史あるバランタイン、一度口にしてみてはいかがでしょうか?